2017.05.15助産師のはなし

あるお産~その1~

私は公益社団法人日本助産師会の会員です。

5月14日(日)

一般社団法人和歌山県助産師会の

平成29年度総会に参加してきました。

 

総会のあと

『受け継ごう!先輩助産師からの技の伝承』

と題して、第一回研修会が開かれました。

講師は、紀南の誇る大先輩助産師の

深見助産院 深見文代先生

植芝助産院 植芝智代子先生

のお二人です。

坂本フジエ先生は👇

残念ながら、所用で欠席されていました。

 

植芝先生は

物のない時代の「知恵と工夫」

助産師を続けるにおいての

「自身の健康」と「生涯勉強」

の大切さを話して下さいました。

現役で助産師を続けて来られた先生ならではの

貴重な歴史を聞かせて頂く事ができました。

 

そして、深見先生は、

あるお産の話をして下さいました。

 

それは、今から遡ること

「60年ほど前」ということでしたから

昭和30年ごろのお話でしょうか。

第二次世界大戦が終わり、10年が経った頃です。

戦後、復興に向かった日本経済が

まさに、高度成長期に突入しようとする時代でした。

 

厚生労働省の人口動態調査によれば、

昭和25年の施設分娩は、全体のわずか4.6%で、

ほとんどが自宅出産でした。

昭和35年になると、病院での分娩が24.1%

診療所が17.5%、助産所が8.5%、

そして自宅などの施設外が49.9%となりました。

 

ですので、昭和30年といえば、

まだまだ自宅出産がメインで

産婆(当時はそう呼ばれていました)さんが

出産を担当していたのです。

 

ある日の夕方です。

「うちの女房が産気づいてるが

 産婆さんがおらんから、朝から探している」

と言って、突然、ご主人がやってきたそうです。

もちろん、深見先生は初めて会う方でした。

 

妊娠経過がまったくわからない出産の

リスクが高いことは、今も昔も変わりません。

けれど、放っておくことはできません。

深見先生は、不安を抱えながらも

四輪車では通れない細い道を

ご主人の運転する単車の後ろに乗って

一緒に家まで行かれたそうです。

 

山奥の家では

奥さんが一人で陣痛に耐えていました。

診察すると、胎児は「斜め子」でした。

「横位」に近かったかもしれません。

そして、ずいぶん大きいようでした。

 

深見先生は、即座に

「これは自分一人では、対応できない」

と思ったそうですが

なにしろ、車が通れない道を

妊婦さんを病院まで運ぶ手段がありません。

携帯電話どころか

固定電話すら、限られた家にしかない時代です。

それに、まだ、救急車も

全国に普及していたわけではなかったようです。

 

そうこうしているうちに、破水してしまい

怖れていた事態になりました。

「臍帯脱出」といって

子宮口と胎児の隙間から

へその緒がとび出してしまったのです。

へその緒は赤ちゃんの命綱です。

もう、どうすることも出来ませんでした。

 

朝までかかって、ようやく生まれた

4300グラムの大きな赤ちゃんは

悲しいことですが

この世に生を受けることはできませんでした。

 

お話の後、深見先生は、

年下の助産師たちに、静かに問いかけました。

「長く助産師をしてきて

 今も忘れられないつらいお産でした。

 あの時、私は、どうすることができたでしょうか?」

と。

 

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