2018.04.01ゆる日記
生きている不思議
当直明けの木曜日、母を連れて
南紀白浜の平草原公園にお花見に行ってきました。
雲ひとつない青空に、桜の美しさが際立ちます。
ぱっと咲き、さっと散って行く儚さと潔さ。
古来から、日本人にとって
桜は特別な感傷を呼び起こす花。
私は、死がまだ、はるかかなたにあるはずの
ずいぶんと若いころから
春、爛漫と咲き誇る桜を見るたびに
「来年、またこの美しい風景を見ることが出来るだろうか」
と考えていたように思います。
誕生日には、そんなふうに思うことなんてないのに。
私の好きな曽野綾子さんの著書に、こんな文章があります。
中年を境に、老年と死に向かうという大体のシナリオは決まっている。
たいていの人は、愛する人も体力も健康も、失っていく。
中年を過ぎたら、いつも失うことに対して準備をしていかなくてはならない。
失う準備というのは、失わないようにすることではなく
失うことを受け入れる、という準備を整えることである。
別れ際のいい人になることが、今の私の最大の願いである。
全く自信のない願いだが、何によらず目標を持つということは
悪いことでもないだろう。
(『中年以降』より抜粋)
『千と千尋の神隠し』の挿入唄
「いつも何度でも」の
「生きている不思議、死んでゆく不思議」
という歌詞を思い出しながら
中年も終わりに差しかかった自分と
高齢になった母は、春のひとときを過ごしました。