2018.04.07昔ばなし
お年寄りの役割 ~その1~
皆さんは、何歳くらいの出来事を覚えていますか?
だいたい、3~4歳頃からの記憶が残るらしいのですが
私はというと、5~6歳頃の事しか思い出せません。
それも、まあまあ暗い記憶が多いのですが(-_-;)
生まれ育った秋津川は、昔からのへき地。
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今でこそ、保育所がありますが
当時は、バスで市内の幼稚園まで通っていました。
奥の停留所から、次々と子どもを拾って、下ってくるバス。
最終の停留所で待っている、私の目に飛び込んでくるのは
最前列に陣取った、4月生まれの同級生3人。
クラスのリーダー的存在でした。
ちなみに、ダイハツが昭和47年に市場から撤退するまで
日本には、軽3輪という車が走っていました。
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私は、通園に乗っていたバスが
このような三輪型だとばかり思い込んでいましたが
調べてみると、記憶違いでした。
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その当時走っていたのは
この『ボンネットバス』ってやつだったんですね。
さて、早生まれで、チビッ子で
おまけに、引っ込み思案だった私。
ボンネットバスの窓越しに見える
からだが大きくて、しっかりした幼稚園児の面々に
子どもごころにも、引け目を感じて
「行きたくないなあ。帰りたいなあ」
なんて思いながら、バスに乗りこんでいた記憶があります。
それは、小学校に上がってからも同じでした。
寒い冬の朝は、
うちの庭に近所のお年寄りが集まって
焚火をしながら四方山話をします。
出来上がった焼き芋を分けてもらいながら
グズグズと焚火にあたっていると
そろそろ、遅刻しそうな時刻。
子どもが産めないという理由で
嫁ぎ先から戻されていた大叔母の
「そこまで一緒に行ったるから」
の声に、ようやく重い腰を上げて
20分くらいの道のりを
とぼとぼ歩いて学校に向かうのでした。
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『石女(うまずめ)』という言葉が
まだ普通に使われていた頃のはなし。
どんな思いで暮らしていたのか
もちろん子供の私に、わかるはずもありませんでしたが
大叔母は、とても優しい人でした。
核家族という言葉が流行ったのは
私が生まれた1963年らしいのですが
田舎では、まだ、どの家庭にも
昔ながらの「年寄り」がいた時代。
そんな時代にまつわる
渡辺哲雄さんのコラムを紹介します。