2020.01.16ゆる日記

彩浜・白浜パンダ一家のルーツ②

当時、アドベンチャーワールドで
飼育部課長だった獣医師林輝昭さんは
チーターをはじめ繁殖の専門家。
以前からパンダの繁殖を希望していました。

一方、動物園として開業後13年を迎えた
白浜アドベンチャーワールドとしても
新しい挑戦を模索していたのです。

そこで1991年、パンダの研究を兼ね展示を行い
(現在)200頭のパンダを飼育しており
世界第2の施設である
成都ジャイアントパンダ繁殖研究基地に
パンダ繁殖の交渉に出向いたのです。

東京上野動物園の
ランラン・カンカンは
1972年(昭和47)日中国交正常化を記念して
友好の証に譲渡されたもので
子を返却する必要はありませんでした。

しかし、1981年(昭和56)中国が
「ワシントン条約」
(絶滅のおそれのある野生動植物の種の国際取引に関する条約)
に加盟したことで
無償譲渡は出来なくなりました。

そこで、アドベンチャーワールドは
当時パンダでは世界で一度も行われたことがない
ブリーディングローンという
繁殖目的のオスメス2頭の長期借り受けを提案。
所有権は中国、生まれた子供も
規定の年齢で中国に返却する約束です。
もちろん多額のレンタル料が必要でした。

飼育環境やエサなどについて検討と議論を重ね
中国側との話し合いを続けた結果
中国側は提案を受け入れることになりました。
パンダの保護活動にはお金がかかります。
この時期、土地の整備費用が必要だったことも
申し出を受け入れた理由のようです。

ところが、当時の通産省は
受け入れ許可を出しませんでした。
自然環境保護団体が反対したからです。
「ワシントン条約の商業取引に当たる」
「学術目的以外の輸出はいけない」
と主張したのです。

奇遇なことに、当時通産省の担当だったのは
仁坂吉伸現和歌山県知事だそうです。

しかし、林さんはあきらめませんでした。
絶滅するかもしれないパンダの繁殖は
「世界的に大きな課題」として
情熱を傾けて交渉にあたりました。

ここで元妻のインタビューが入り
「自分が育児に一番大変な時に
 夫がパンダ一筋で
 子どもが顔を見て泣いた」
と答えているのですが
う~ん。
なかなか難しいところですね(-_-;)

それはさておき
1994年、ついに努力が実を結び
保護団体の理解を得ることが出来ました。
通産省はパンダの10年間借り入れ輸入申請を許可。
世界発パンダのブリーディングローンが行われたのです。

現副園長中尾建子さんは
獣医師としてパンダの健康管理担当を拝命。
上司から中国語の資料の束を渡されて
勉強するように指示されたそうです。
中国語など全く分からなかった中尾さんは
辞書片手に猛勉強。
本当に必死だったと振り返っていました。

1994年 9月6日
開港3日目の関西国際空港に
成都から2頭のパンダが到着しました。
中国のベテラン飼育員も一緒です。
そのパンダが、永明と蓉浜(ともに2歳)
3年後の5歳には繁殖が期待されました。

メスの蓉浜は来園時から食欲旺盛でしたが
神経質なオスの永明は
なかなか食欲が出ませんでした。
ところが、いよいよ繁殖可能な年齢になった
3年後の1997年、元気だった蓉浜が
原因不明で突然死んでしまいます。

飼育責任者の林さんは落胆する間もなく
プロジェクト継続を強く願って
蓉浜死亡の報告と
新しいメスの貸し出し依頼に
中国に向かいました。

成都ジャイアントパンダ繁殖研究基地でも
プロジェクトの挫折は望まず
林さんの希望通り
新しいメスパンダの貸し出しを承諾しました。

無事、メスの借り受けが決まったものの
繁殖成功の成否は永明にかかっていました。

神経質で竹グルメな永明は
竹の状態が少しでも悪いと口にしなかったため
なかなか体調が安定しなかったのです。
繁殖プログラムが成功できる個体にするために
早急に体調を改善する必要がありました。

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