2018.04.07昔ばなし
お年寄りの役割~その2~
感情はエネルギーです。
小さな感情が生まれては出口を求めているのが
私たちの心の日常の姿です。
感情を言葉で表現するためには、
まずは聴いてくれる人が必要です。
私たちは壁に向かってはしゃべれません。
次は場所です。
静かで落ち着いた雰囲気なら最高です。
そして時間です。
複雑で深刻な感情の吐露であればあるほど、
誰にも邪魔されない十分な時間が保障されるべきでしょう。
最後は聴く技術です。
感情がしっかりと受け止められる聴き方をされなければ、
話す気力もなくなってしまいます。
ところが現代社会は、
この四つの条件を整えるのが
大変難しい状況になっているように思うのです。
私が子供の頃、
家には通称「くど」と呼ばれる竈(かまど)があって、
学校から帰ると祖母が切り株に腰を下ろして
火吹き竹でプ~ッとご飯を炊いていました。
ランドセルを放り投げて
祖母の横のもう一つの切り株に座り、
「お婆ちゃん、何かない?」
と言うのが、子供たちの口癖でした。
祖母はよっこらしょと立ち上がると、
大きな真鍮の鍋に塩茹でしてある大量のじゃが芋を、
長い菜箸でプツッ、プツッ、プツッと串刺しにして、
ぬうっと差し出してくれました。
それをハフハフとかじりながら、
私は学校であった一日の出来事を全部しゃべりました。
嬉しいことも悲しいことも、
恥ずかしいことも悔しいことも…。
祖母は火吹き竹の手を休めて、
ゆっくりと聞いてくれました。
つまり、そこには聴いてくれる人と
場所と時間がたっぷりとあったのです。
ところが、わが家に電気釜がやって来ると、
場所も時間もなくなりました。
電気釜という文明の利器が奪ったのです。
当時は「カナダライ」と呼ばれる
ブリキ製の盥(たらい)がありました。
祖母は洗濯板という波型の板に
汚れ物をこすり付けてごしごしと洗濯をしていました。
確か、白い大きなミヨシという
固形石鹸を用いていたように思います。
「かまど」を失った私は
「カナダライ」の傍らにしゃがみ込んで
一日の出来事をしゃべりましたが、
洗濯機がやって来るとこれも姿を消しました。
洗濯機という文明の利器はまたしても
祖母と孫がゆっくりと話し合う場所と時間を奪ったのです。
座敷箒という、藁(わら)でできたホウキがあって、
「哲雄、座敷を掃くでなあ、お茶の葉っぱを撒いてくれ」
私はよく祖母に命じられました。
濡れたお茶っ葉を畳に撒いて、
埃と一緒にからめ取る生活の知恵でした。
私はお茶っ葉を撒きながら一日のできごとしゃべり、
祖母はそうかそうかと掃きながら聴いてくれましたが、
わが家にやって来た電気掃除機は、
激しい騒音で会話を許しませんでした。
つまり文明という名の時間節約装置は、
人間を家事労働の拘束から解き放つ一方で、
人と人とが関わる機会を慢性的に奪ったのです。
現代社会が、感情を言葉で処理するための条件を整えにくいのは
暮らしを便利にしたいと願うあまり、
人を一定の場所に一定時間縛り付けておくことの
もう一つの意義を見落としたからです。
今では、まとまった話しをしようとすれば、
わざわざ場所と時間を設定しなければなりません。
しかし、心の中で生まれては出口を探す小さな感情たちは、
場所と時間が設定されるまで待ってなどいられません。
すぐさま竈(かまど)の前に座る
お婆ちゃんのところへ駆け寄って話しをしたいのです。
そういう意味で私たち現代人は、
心を健康に保つためには
誠に困難な時代に身を置いていると言わなくてはなりません。
昔なら井戸端や縁側で
存分に放出されていた数々の感情が、
今はそれぞれの心の中でくすぶっています。